浄瑠璃の発生については正確な年代はわかりませんが、だいたい室町中 期(15世紀末)と考えられます。 浄瑠璃の名前は、語って聞かせた物語「浄瑠璃姫十二段草子」から出た もので、これは鞍馬山を抜け出た牛若丸と浄瑠璃姫との恋愛をテーマに したもので、この物語の節回しが新しく工夫された事が歓迎されたとみ え、その節回しを“浄瑠璃節”と呼ぶようになりました。 浄瑠璃節は伴奏には琵琶を使っていましたが、なかには扇拍子といって 革張りの扇で拍子板を叩きながら語るものもありました。 三味線ができると、これを伴奏楽器として用いるようになり、浄瑠璃節 は音楽として大きく飛躍しました。衣ずれにしても、三味線を伴奏楽器 にする事により浄瑠璃は大きくかわり、いよいよ人気が高まり、このよ うに語りものとして、音楽的にも、文楽的にも進歩した浄瑠璃を、人形 劇の地につかったのが“操り浄瑠璃”でした。 最初に両者を結びつけたのは京の目貫屋長三郎(めぬきやちょうざぶろ う/浄瑠璃語り)と引田淡路壌(ひきだあわじのじょう/人形遣い)だ といわれ、慶長初年(16世紀末)のこととされています。どんな芸能も 人気が高まる時は、名人、上手がたくさんでます。浄瑠璃の場合も例外 ではなく、江戸時代に入ると多くの名手が輩出して、それぞれ一派を立 て人気を争いました。観客も又、自分自信の好みに応じて特定の浄瑠璃 をひいきにし、声援を送ったのです。 もともと浄瑠璃は京を中心としたが、まもなく江戸にも移されて土地柄 を反映した力強い芸風を生み出し、それが上方に逆輸入されて新風を吹 き込むというようなありさまで、江戸中期(17世紀後半)にさしかかる ころには数十人に及ぶ流派が生まれました。 それらのなかで、特に人気があり技芸もすぐれていた一人に、大阪の井 上播磨壌(いのうえはりまのじょう)がいます。播磨壌ははじめ京都の 御所の御簾をつくる職人でしたが、浄瑠璃が好きで工夫をこらし、特に 江戸で盛んであった金平節(きんぴら)という豪快な曲風をとり入れて 一派を立てました。その浄瑠璃は武勇のなかに憂いをこめ、節回しがた くみで、しかも文句がはっきりわかるようにつとめたといわれます。 この播磨壌の高弟に清水理兵衛という人とがいました。理兵衛はもと もと大阪の南端に近い安居天神付近の料亭の主人が本業でしたが、ある 夏の日に裏の畑から聞こえてくる浄瑠璃に昼寝の夢を破られました。そ れは、確かに素人らしく節回しも上手ではないが、朗々ととおる音量の 豊かさに、すっかり聞き惚れてしまったのです。 理兵衛はすぐに家の者をやって声の主を呼び迎えましたが、おずおずと 入ってきたのは以外にも年若い農夫で、近くの天王寺村に住む五郎兵衛 という者だと名のりました。彼の非凡な素質を見抜いた理兵衛が浄瑠璃 語りになることをすすめますと、もろより浄瑠璃が好きで、聞き覚えた のを畑仕事の最中に語り出すほどの五郎兵衛ですから、飛び立つばかり に喜び二つ返事で理兵衛に入門しました。 さすがに理兵衛が見こんだだけあって、五郎兵衛の上達はめざましく まもなく師匠のワキをつとめるようになり、播磨風の浄瑠璃をすっかり 自分のものにしました。その後、五郎兵衛は京に上がり、清水理太夫と 名のって加賀壌の一座に加わり、播磨とは反対の細かい節回しで優艶な 語りを学ぶことにより、硬軟両様の浄瑠理を身につけたのです。 その後、理太夫は京を離れ数年西国のあちこちをまわって研究を重ねる うちに、新しい浄瑠璃への道を悟ったと言われています。 芸に開眼した理太夫はただちに大阪へ帰り、名を竹本義太夫と改めて 道頓堀に竹本座の櫓を上げました。 義太夫が始めた新しい浄瑠璃は、他派の色々な長所等を幅広く取り入れ た為、従来の浄瑠璃にくらべて表現が多彩で耳新しいものでした。 竹本座の旗上げ興行には、近松門左衛門の『世継曽我(よつぎそが)』 を上演したところ、非常な評判でたちまち大阪の人気を集めました。 義太夫の人気はどんどん高まり、このころ近松門左衛門がはじめて義太 夫のための新作『出世景清(しゅっせかげきよ)』を書き下ろしました 。このことが今日の文楽を生みだす原点ともいえる、義太夫と近松の結 びつきが実現したことでしょう。 義太夫はみずからの浄瑠璃を“当流”と名づけましたが、これ以後は在 来の各派浄瑠璃は目立って衰微し、単に浄瑠璃といえば当流すなわち義 太夫節を意味するほどになりました。浄瑠璃史上に記念すべき貞亨三( 1686)年、竹本座の『出世景清』上演を境として、それ以前の各派浄 瑠璃を、“古浄瑠璃”と呼んでいます。 山田庄一『文楽入門』参照